ホーム   >  ハワイアン文化   >  特集10回目クム・フラ インタビュー「サニー・チン Sonny Ching」

第10回サニー・チン

オアフ島生まれ。4歳の時から祖母により家に代々伝わるフラを伝授された。1986年よりクムフラとして「ハーラウ・ナ・マモ・オ・プウアナフル(Halau Na Mamo O Pu’uanahulu)」を開始。メリー・モナーク・フェスティバルやその他のフラ大会に於いて数々の総合優勝、そして常に上位入賞する名門ハーラウとして知られている。メリー・モナークではミス・アロハ・フラを3人も連続優勝へ導いたことでも有名。近年その彼の活躍は目覚しく、新しい方向性のフラ・ステージを提供するなど、その独創的な舞台演出には定評がある。クムフラとしてだけではなく、ジュエリー・デザイナーとしての才能も発揮し、マルチに活躍するクムフラ。

Reiko:
お久しぶりです!今日はお時間を作っていただき有難うございました。それでは先ず、簡単な履歴と近況をお聞かせください。
Sonny:
僕はオアフ島生まれ。ここ(オアフ島カピオラニ公園)から車で3分ほど離れた、祖父母が建てた家で生まれ育ち、現在もそこ住んでいるんだ。 この辺りでは一番最初、1922年に建てられた家なんだよ。だから通りの名前も祖父の苗字「ゲレロ・ストリート」と命名したい、と言われたそうだけど、それは余りにも大袈裟だ、ということで丁寧にお断りしたらしいけどね。
Reiko:
ではこの周辺一帯はクムの『庭』だったんですね!
Sonny:
そうだね。だからこの土地で、僕は祖母から四歳の頃フラを習い始めた。祖母はクム・フラで、その母もクム・フラであり、カフナ・ラアウラパアウ(薬草の専門家)でもあった。その僕の曾祖母の大叔母もクム・フラ、僕の伯母もクム・フラで、僕は五代目のクム・フラなんだ。生まれる前から「この子はクム・フラになる」、と予言され誕生した、つまり伝統を受け継ぎ、その伝統を途絶えさせない為に僕は生を受けた、ということ。
だから、僕がクム・フラになったのもそれが最大の理由だね。ハーラウを優勝に導くことでも無く、報酬の為でもない、ただ単に伝統を受け継ぎ、それを伝える為にクム・フラとして存在している。年をとればとるほど、その任務に対する感覚が研ぎ澄まされてきた、と感じるよ。もちろん僕の居なくなった後にも家系の伝統であるフラが受け継がれ、更に僕のハーラウのスタイルも受け継がれる、と言うことに焦点を充てているけどね。
Reiko:
具体的にはどういうことですか?
Sonny:
現在、5年制のウニキ・クラス(師範クラス:日本のハーラウの講師代理を務めるロパカさんもその一人)を教えていて、クラスの生徒は現在6人になった。けれど、生徒全員が15年以上も僕の元で踊っている生徒ばかりで、来年卒業する予定なんだ。とても嬉しいし喜ばしいことだけど、時に悲しくなることもある、苦甘いことだね。
Reiko:
何故ですか?
Sonny:
6人の生徒の内、4人は男子。これは殆どハーラウのカーネ(男性)グループの一列目のダンサー達なので、彼らが卒業してしまうと、前列が殆ど居なくなってしまう。そうなると見た目も音的にもまったく違う雰囲気のグループになってしまうからね。ま、これも慣れ親しんだものから新しいものへ、という過渡期なんだ。だからクム・フラとして嬉しい反面、寂しい気持ちもある複雑な心境、ということだね。
Reiko:
ご自身のハーラウ体験をお聞かせください。
Sonny:
僕は祖母から個人レッスン、つまりマンツーマン形式でフラを教わった。
モダンな演出のステージ
伝統に対する理解があるからこそ可能なモダンな演出
祖母は1930年代からずっと60年代初期までハーラウで教えていたけれど、祖父が電気関係の会社を設立したので、祖母はその手伝いも兼ねてクム・フラとして引退したんだ。
だから、僕が祖母から教わり始めた頃は、ハーラウという環境ではなく、自宅でのレッスンだった。それで15歳になったころ、従姉妹から新しいハーラウができたから一緒に入ってみない?との誘いを受けた。他の人と一緒に踊る、と言うことを経験してみたかったので祖母からの許可を得て、カイルアにあるというハーラウの見学に行ったんだ。
そのハーラウというのは、クム・フラ、フランク・カヴァイカプオカラニ・ヒューイットのハーラウで、彼の元で4年間踊らせてもらった。素晴らしい充実した時間を過ごしたよ。初のハーラウ体験で最高のハーラウにめぐり合うことができて本当にラッキーだったね。ハーラウの部屋に入っただけで強いマナを感じることができるほど、マナが溢れている・・・そんな所だった。彼のお陰でフラがいかにスピリチュアルなものであるかを学ぶことができたんだ。
僕たちのクプナ(人生の先輩である老人達)がそうであったと同じように、スピリチュアルであり、何事も敬う姿勢を持ちながら伝統、そしてフラを学び、受け継いでいくことの大切さを理解することができた。クプナたちとそのような姿勢を持ちながら接することにより、彼(女)等とお互いを深く理解できるようになり、また、踊る内容やチャントもより深く理解できるようになる。若い十代の頃に、そのような思想や姿勢に接することができたことは、非常に啓発的だったね。それでフラと自分がやらなければならないことの大切さを深く理解できるようになったんだ。
Reiko:
ではそれからずっとクム・フラ、カヴァイカプオカラニに師事されたんですか?
Sonny:
いや、それがカネオヘに当時両親が住んでいたから、クムのハーラウに通うことが可能だったんだけど、祖父が他界したことをきっかけに、祖母と再びカピオラニの家で同居することになって、カネオヘまで通うことが困難になってしまったんだ。
本番前の厳しいクムの顔
本番前の表情は厳しいクムの顔
なので、次にクム・フラ、ラヘラ・カアイフネ(著名なクム・フラ、故マイキ・アイウからウニキした生徒の一人)のハーラウで3年間踊ったよ。
その間にダンサーとして、初のメリー・モナーク大会にも出場したり、彼女のお陰で余り興味の無かったアウアナも、ものすごく好きになることができた。すごく体の大きな人だったけれど、踊りがとても軽やかで、優雅だったね。アウアナというのは近代のハッパ・ハオレ(直訳すると「半分白人」と言う意味で、実際には1930~50年代頃に米国本土の影響を受けたハワイアン・スタイルの音楽や踊りのこと)の歴史を汲んだ踊りで、それはそれでフラの歴史の一部であることは事実であり、それもまた素晴らしい踊りなんだ、ということをクム・ラヘラのお陰で理解し、受け入れられるようになったんだ。なので、僕も生徒達にフラの持つ全ての局面を理解してもらう為に、カヒコもアウアナも教えている。
Reiko:
素晴らしいクム・フラの方々の出会いがあったんですね。
Sonny:
今日の自分がクム・フラとしていられるのも、すべて先に挙げた三人のクム・フラ達が基盤を築き上げてくれたお陰なんだ。本当にこの三人には感謝しているよ。
Reiko:
では実際にクム・フラとなられたのはいつですか?
Sonny:
1984年の2月に祖母からウニキの儀式を受け、祖母は翌月の3月1日に亡くなった。多分祖母はもう先が長くないことを知っていたので、正式に誰が一族の家元として伝統を受け継ぐのか、というのをはっきりと家族内で知らしめることが必要だったんだと思う。つまり、一族の伝統の長としての地位を受け継ぐことが、クム・フラの役割、そして責任でもあるので、ウニキを受けたことにより、僕の存在はそのように認知されたんだ。
Reiko:
ウニキを受けるまでの準備期間はどのくらいだったのですか?
Sonny:
生まれた時からウニキを受けるまで、全てが修行期間だったと言えるね。だから踊れる、ということだけではクム・フラにはなれないよ。数年踊りの勉強をしただけで、クム・フラになれる訳はないよね。誰だって踊りを教えることはできるけど、それが本当のフラかどうか、ということは別問題だからね。
Reiko:
なるほど。ではクム・フラとして教え始めたのは1984年からですか?
Sonny:
いや、教え始めたのは1986年からなんだ。何故かと言うと、舞台に別れを告げるというとに対して、まだ心の準備ができていなかったから。クム・フラになるということは、ダンサーとしては引退する、ということだからね。
ウニキを受けた時はまだ22歳、まだまだ舞台で踊れる、という気持ちもあったし、その部分の人生に十分未練があったんだ。だから、多くのダンサー達がクム・フラになりたがるその理由をいつも何故だろう、目的はなんだろう?と考えてしまう。今回ウニキ・クラスにいる6人の生徒達にも同じ質問をした。何故クム・フラになりたいのか?もしその理由が有名になりたいから、とか認知されたいから、ということであればそれは間違った選択であり、エンターテイナーになるべきであって先生ではない、ということを伝えているんだ。それが先ず一番大切なこと、私達の使命は第一に教師であり、知識を次の世代に伝えることなんだよ。
Reiko:
メリー・モナークでは数々の総合優勝やミス・アロハ・フラの3年連続優勝など、素晴らしい成績を残されていますよね。大会に対してクムはどのような体験や思い出がありますか?
Sonny:
サニー・チン
多方面に於いて才能と発想が非常に豊かなクム
メリー・モナーク大会にダンサーとして参加したのは2回、ウニキした翌年とその又翌年に参加することができた。メリー・モナークへはそれ以外に祖母と観客としてよく観に行っていたよ。当時はまだアフック・チネン公会堂で開催されていて、審査員がダンサーやハーラウに付ける点数がプラカードに書かれ、すぐに監修に表示されていたんだ。だから点数によっては盛り上がったり、ブーイングが起こったり、面白かったよ! 1994年にはクム・フラとしてハーラウを率いて初参加し、2006年には審査員として、更にはパレードにも参加した。それから2007年にはホイケ(前夜祭)にも参加したんだ。だからアンティー・ルアナ(メリー・モナークの総監督)にも言ったんだけど、メリー・モナークでやってないことは、セキュリティー、舞台の飾りつけ係、それから舞台の掃除係、それしかありませんってね!
Reiko:
それではもしかしたら、将来クムがメリー・モナーク大会の舞台の上でほうきを持って、落ちたレイの花や葉を掃除しているお姿を拝見するかもしれないということですか?
Sonny:
そういうこともありえるかもしれないね(笑)!
Reiko:
今日は本当にお忙しいところお話をしていただき有難うございました!
~インタビュー後日談~

スカッと晴れたある日、ワイキキすぐ近くのカピオラニ公園にて、野外インタビューをさせていただきました。いつも颯爽と大変お洒落なクム、この日も白で統一されたルックで一段とステキでした♪
マルチに活躍されているだけに、あらゆる方面の事を書ききれないほど、時にはユーモアを交えてお話ししていただきました♪今後のご活躍、益々期待しています!
サニー・チン ウェブサイト:http://www.sonnyching.com

番外編:ジュエリー・デザイナー、サニー・チン!
Reiko:
最近ジュエリー・デザインも始められたと伺いましたが?
Sonny:
そうなんだ、パラディサス、というジュエリー・デザイン会社とのコラボレーションをしているんだ。
そもそも十代の頃の僕の将来の夢というのは、ファッション・デザイナーになることだったんだ。誰もが定められた運命に反抗したくなる時期があると思うけど、僕の場合は十代の頃がその反抗期だった。クム・フラにはなりたくない、ファッション・デザイナーになるんだ、という夢があった。だからニューヨークのファッション工科大学に行って、卒業したら自分のブランドを立ち上げ、洋服をデザインする予定だったんだよ(笑)!
でも人生とは不思議なもので、天から定められた道には逆らえない、どんなに紆余曲折しても必ず歩むべく道に戻ってくるんだね。結局ファッションの道は諦めたけど、クム・フラとしては舞台の衣装をアレンジしなければならないから、ある程度自分のファッションに対する要求は満たされれいるよ。でもやはり、フラに合う合わないスタイル等は無視できないから、自分の要求どおりにはできない。だから、といっては何だけど、自分のファッション・センスを満たすことをいくつかやっているよ。
サニーのジュエリー
ジュエリー・デザイナーとしてもデビュー!
その一つは、ある日ナラニ(カナカオレ)と隣同士に座ることがあり、夕方肌寒くなったので「寒いな~」とコメントしたんだ。そうしたらナラニに「スカーフをまとってないからじゃない。」と言われたんだ。そのコメントに「なるほど!」と閃いたのさ!それ以来、スカーフは僕の定番スタイルの一要素となった、という訳。
そして最近は、優秀なアラカイがハーラウをサポートしてくれているお陰で、少しは自分の時間が持てるから、デザインすることも再開させたよ。これも又ナラニの影響なんだけど、彼女が「私はアロハウェアは嫌い」、と夫であるシグ・ゼーンの前でコメントしていたんだ。僕はそれを聴いてびっくりしたんだけど、ハワイアンでフラをやっているからアロハウェアではなくてはならないって決まりはない、ということを確信できたんだよ。だから20年以上もクム・フラとしてやってきたけど、もしかしたら自分の夢はまだまだ叶えられるかもしれない、と彼女の言葉に勇気付けられたんだ。決して遅くはないぞ、とね!
Reiko:
それでジュエリー・デザインを始められたのですか?
Sonny:
これも又面白い経緯があったんだ。パラディサスはデザイナー兼オーナーである母娘のリンダとアケミ・ウエダ親子が運営している会社なんだ。 ある日、リンダが彼女の弟に「新しいコレクションをやりたいんだけど、ハワイの伝統や文化を理解している人で、例えばサニー・チンのような人にデザインしてもらえたら最高なのよね」、という話をした。そうしたら、弟が「サニー・チンなら僕の患者だよ!」って!なんとその弟さんは僕や僕の家族の歯医者さんだったんだ。
という訳で、丁度その次の週歯医者に行く予定になっていた僕は、歯医者で口を開け、治療されている最中に「実は姉が・・・」と切り出されたもんだから断れなくって(笑)、というのは冗談だけど、そんなご縁があってリンダと会うことになった。
誰もやっていないことをデザインしよう、ということで盛り上がり、僕はオヘ・カパラ(ハワイの伝統的な竹印)、彼女はカーカウ(ハワイの伝統的な刺青)と言うほぼ同じイメージを思い描いていたので、即意気投合し、ジュエリー・デザインを始めることになった。
どちらにしても文化的にも正統である、というのが大切なところだね。ハワイには銀細工の伝統はなかったけれど、新しい材料に伝統的なデザインを施した、というのが僕のコレクションなんだ。一つ一つのデザインには意味が込められているから、その意味に合わせて身に付けることができる。 ジュエリー・デザインを初めて2年経ち、最近又更に新しいコレクションを発表したんだ。それに洋服のデザインもこれからリンダと始める予定だし、新しいことを始めて益々クリエイティブな意欲が沸いてきた感じだね!
Reiko:
これからもがんばってくださいね!

パラディサス・ジュエリー、サニー・チン・コレクションのウェブサイト:
http://www.myparadisus.com

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